満ち足りて優しく生きるための覚書

自分を好きになる、自分に生まれてよかったと言える、満足して、自分にも人にも優しくなれる、そんな人生にしたい。

愛のある優しい世界の住人でいたい

昨日は天赦日だったので、ちょっと勇気を出してみた。

経営しているお店でお客様とお話しするのが好きなので、お悩み相談を対面でしたくなり、お知らせしてみた。そして、チラシも作ってみた。

できたことに、ホッとして、なんだかワクワクするような、ドキドキするような気持ち。

本当にお客様が、私と話したいって来てくれるかどうかはわからないけど、一歩踏み出せたことは「よし!」としたい。

必要な人に、ご縁がある人に届けばいいな。

 

こちらのブログでは、今まで学んできたことや感じてきたことなど、とりとめもなく書いてきたけれど、どのくらいの人の目に留まったかもわからないけど、とにかくできたことにはOKを出そう。

 

お店だけでも充分楽しいけど、もっといろんな人と出会っていろんな話を聞いてみたい。人や歴史や心理学やスピリチュアルや目に見えない世界の話が好きなんだな。

霊視はできないし、占いもできないし、サイキックな能力もないし、エネルギー伝授などもできないし。取り立ててずば抜けた才能もないけれど。

人が成長したくて努力してたり、優しい気持ちを他の人に示していたりするのを見るのが好き。素直で優しい世界が好き。等身大の自分で、自分のやるべきことをしている人が好き。そんな愛のある世界の住人でいたい。そんな人とつながりたい。

尊敬しあえる、尊重しあえる、自由で安心できる満足できる世界がいいなぁ。

 

 

 

 

 

軽く勇気を出す

何でもそうだけど、新しいことを始める時には緊張したり、不安になったりする。

これは当たり前のこと。それでも、勇気を出して行動していかなければ、変化していかない。新しい世界に入っていけない。

誰かが代わりにやってはくれない。自分でやるしかないんだよ。

誰でも通る道。

「今のままで充分幸せ、このままでいいの」という人は、別にそんな勇気は必要ないかもしれないけど、変わりたいならほんのちょっとだけ軽く勇気を出そう。

 

力いっぱい頑張るとか、完璧にやろうとすると、肩に力が入って、緊張して固くなって、十分な力を発揮することはできない。

初めてのことなんだから、できなくて当たり前。

失敗してもいい。間違ってもいい。完璧にやろうとしないことだ。

始めは緊張してうまくできなくても、やり続けたらきっと、慣れてくる。

やってるうちに要領が分かってくる。

こうした方がいいかな、ああした方がいいかな、って考えるようになる。

そして、自分にとってやりやすい方法、楽しい方法がわかってくる。

それまでには時間がかかるのは当たり前のこと。

諦めないで続けることが大事。

ムリに人の役に立とうとしなくていいんだよ。

自分にそんなに厳しくしなくていいんだよ。

やりたいことがあるなら、挑戦してみよう。

どんな自分になってみたい?

それをやって成功している自分をイメージできるかな。

そのイメージできた自分の軽さを、今体感してみよう。

イメージできるということは、それが自分にもできるということ。

夢は実現できるということ。

決心は軽く。勇気を出すのも軽く。楽しく。

その夢は、叶う夢だからこそ、自分の心に浮かぶんだ。

その自分の直感を信じようよ。

大丈夫。きっと慣れる、きっと成れる。

 

 

 

相手に言いたいことは自分に言いたいこと

多くの人が、友人から相談されたり、悩みやグチを聞かされたりすることがあると思う。

「こうすればいいんじゃない?」

「ああすればいいんじゃない?」

「そんなに気にしなくていいんじゃない?」

「もっと自分を大事にしたほうがいいよ」

「我慢しないで言いたいこと言ったらいいんじゃない?」

「そんなの許せないよね。辛いよね。わかる~。」

「そんなに人目を気にしてないで、やりたいことやったらいいんじゃない?」

などなど、さまざまに受け答えすると思う。

 

実は、目の前の人に言いたいことは、自分に言いたいことなんだよね。

目の前の人は、自分の心を現わしてくれる鏡だからね。

これが「鏡」の一つの解釈の仕方。

(その鏡の解釈も、その場その時によって、さまざまな見方があるので、簡単には説明できない。本当に難しい・・・。)

 

先ほどの答えの中で、例えば、「そんなに人目を気にしないで、やりたいことをやったらいいんじゃない?」という言葉は、「自分が人目を気にしてやりたいことをやっていない」ということ。

「我慢しないで、言いたいこと言ったらいいんじゃない?」というのも、「自分が誰かに言いたいことを素直に言えてない」ということ。

 

目の前の人が、言ってること&やってることで、何か自分の心に引っかかることがある時、気になることがある時、それは、自分でもやっている可能性があるし、同じような状況だったりする。

または、現在ではなくても、過去に同じことをやっていて、ネガティブな記憶として心に残っているという可能性がある。

その過去の傷を癒すタイミングが来たということなんだよ。

もう手放してもいいって、許すタイミングが来たということなんだよ。

 

人にいろんなアドバイスをしながら、「あれ?もしかして、これって私のこと?私も同じことやっちゃってる?」と気づけるようになるといい。

自分のこととして受け取れたら、少しずつ、本質の自分に近づいていくことができるよ。

 

 

 

自分の成長に必要な人に出会う

人が成長するために問題は起きる。

人の悩みは、さまざまであるが、多くは人間関係である。

もちろん、病気やお金やいろんな問題はあるけれども。

問題自体はダミーであり、その問題が起こることによって自分の気持ちを感じることが成長するために大事である。

だから、そのタイミングが来た時に、その問題が起こり、成長を促されるのだ。

そして、その成長するのに、手助けしてくれる必要な人には出会えることになっている。その人は、何を見せてくれるだろう。その人から何を学ぶだろう。

自分の中の嫌いな部分、ダメだと思っている部分、許せないと思ってる部分を、その人と出会うことによってあぶりだされるだろうか。そして、それを許せるようになるだろうか。

それとも、自分ができないことを、簡単にできてしまう人で、頼りになる人で、「あの人みたいになりたい」とあこがれるだろうか。

同じ趣味を持ち、楽しくすごして世界が広がり発展するだろうか。

その人と出会うことによって、自分の何が刺激されるのか。

好きな人でも、苦手な人でも、必ずお互いに影響しあい、成長するために出会う。

たとえ嫌いな人でも、ただ意識から排除するのではもったいない。

もちろん、自分の身に危害が及ぶような場所からは離れるほうがよいけれども。

 

その人と出会うことによって、自分の考え方や、対処の仕方、感じ方が変わっていく。以前の自分だったら考えなかったことや、感じなかったことも意識できるようになり、成長する。

 

自分を大事にしている人は、自分を大事に扱ってくれる人に出会える。

逆に、自分をないがしろにしている人は、自分を雑に扱う人と出会う。

相手を見ると、自分の姿を見ることができるのである。

自分を知るために、他の人がいてくれる。

自分を知るために、問題が起きる。

そのおかげで、本当に望んでいる自分自身に戻ることができるのだ。

自分の成長に必要な人には必ずそのタイミングで出会える。

何かを身に付けることも成長の一つだけれど、身に付けた余分なストレスを手放すのも成長である。

 

言いたいことが言えるだろうか。我慢ばっかりしてないだろうか。

素直になれるか、意地っ張りになってないだろうか。

パワーをもらえる人だろうか、エネルギーを吸い取られてしまう人だろうか。

ちゃんと肯定できるだろうか、否定ばかりしてないだろうか。

自分の周りをよく見てみるといい。

周りの人の姿は自分の姿なのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

身体は正直

自分では、普通に毎日過ごしているつもりだったけど。

なんだか、知らないうちにまた無理していたみたい。

自分ではなかなか気が付けない。

ついやりすぎてしまう。

頑張りすぎてしまう。

だって、自分は熱血派。

自分がやりたいと思ってやっていることがついやりすぎてしまうんだな。

セーブが効かないというか、これが私のペースと思って普通にやっているだけなのに。先日、朝から頭が痛いような気がする・・・と思いながら、仕事してたら、夕方になって、急に吐き気がして、立っていられなくて、ダウンしてしまった。

またやってしまったよ。

自分では普通にやってるつもりだったのに、こんな風にダウンするなんて、やっぱりやりすぎてたんだよな。体は、「「ムリ!」って言ってた。

ラクに、今までの70%くらいのパワーで過ごす、と決めて、うまく回っていたはずなのに。知らないうちに、また元のガツガツなやり方に戻ってしまってた。

また、やり直しです。

もう少し、ラクに、身体に負担かけないように。

自分のペースを変えるのは、なかなか難しいね。

たくさん睡眠を取ったら、体力回復した。

食事もちゃんと取った。

当たり前の生活だけど、身体のために、自分のために、もう少し余裕をもって過ごそうと思う。

自分を大事にする、ということの基本だね。

 

 

ね!やっぱり大丈夫だったでしょ!

やりたいことはできるようになっているとか、自分を信じるとか、天の配剤を信じるとか、最初からすぐに全面的に信じられるようになったわけではない。

本当にそうなのかな?そうだったらすごいけどな。そうであってほしいな。とか最初はいろんな思いがあったが、とりあえず、それが本当なのかどうか、自分で体験してみないと、心から信じられるようにはならない、と思い、とにかくやってみようと思った。

例えば、私は毎日の仕事の中で、やるべきことを書き出して、終わったものから消してゆく。

朝のやるべき仕込みがたくさんあって、どうしても開店前までに間に合わない!ということがよくあるのだが、いつも焦っていて、時間に追われていて、開店してからも仕込みをやっていたりする。

そこで、よく「仕込みが終わるまでお客様がきませんように!」なんて思ってやってたりしたのだが、こういう「否定の望み」は叶わないことになっている。やっぱり、仕込みできないうちに、お客様が見えて、テンパってグダグダになって、失敗し敗北感を味わうことになるのである。

こういう時は、「今、全部仕込みできてないけど、お客様が見えるまでには間に合うはず。もし、間に合わなかったとしても何とかなる。間に合わなかったら、(そのオーダーを)断ってもいい」と思ってやると、本当に、間に合ったり、間に合わなかったとしても、お客様は、仕込みができてないメニューでなく、別のものをオーダーされたり、何とかなるのである。

そして、「ね!やっぱり何とかなった。大丈夫だったでしょ!」となるのである。

 

自分が本当にやりたいことをやって、その延長でそうなった時は、それも天の意志である、と私は思っている。

例えば、朝、出がけに、ふと興味あるニュースをテレビでやっていて、それを見ていたために出勤が遅れ、仕込みが間に合わないとする。でも、本当に、自分が心から知りたかったニュースをそのタイミングでテレビで見たということは、流れに沿っているのであって、それに従ってよいのである。

そして、その上で仕込みができなかった時は、それで開店したとしても、お客様が見えなかったり、見えても違うものをオーダーしてくれたり、支障がないのである。そして、仕込みが全部終った後、そのオーダーが入ったりする。

うまく回っているなぁと、いつも思う。

だから、本当にやりたいことを、心に従って行動している時、うまく回っているので、焦ることなく、安心してやればいいのである。

「天は、きっと大丈夫だということを見せてくれるはず」と思い、そういう体験を繰り返していくうちに、「やっぱり大丈夫だった!」ということを確認していくのだ。そして、「大丈夫かな?」と心配する気持ちも薄れて行って、次第にそういうことも思わなくなる。思わなくなるということは、信頼できるようになっているということである。「ね!やっぱり大丈夫だったでしょ!」ということも思わなくなるのである。

そうなると、本当に不安がなく、安心して過ごせるようになる。

自分を信頼し、天を信頼し、いつでも大丈夫だと信じられるようになると、先の不安はないのである。それが当たり前になる。とてもラク。幸せだよ。

 

ただし、注意したいことは、本当にやりたいことをやるのではなく、やりたくないことから逃げるために、ごまかすために、それをやっているのであれば、望みは叶わない。

例えば、さっきの話で言うと、朝、仕事に行きたくない、仕込みしたくない、だから、なんとなくだらだらテレビを見てしまう、というのでは、うまく回らない。

また、仕込みしながら、「ダメだ、絶対間に合わない。間に合う気がしない。お客様に”ない”って断らなくちゃならない。」などと、否定的な、ネガティブな思いが強いと、それもうまくいかない。「うまくいく。大丈夫。」と、心から信じられない時は、うまくいかないのである。

表面的な望みより、心の奥底で思っていることが叶ってしまう仕組みなのだ。

だから、いくら頭で「大丈夫、大丈夫」と言い聞かせてもうまくいかないのだ。

 

自分が心からやりたいことをやる、とか、自分の素直な気持ちを知る、とか、日々、自分の気持ちに寄り添っていくことが大事である。

きっと、「ね、やっぱり大丈夫だったでしょ」と確認することが多くなっていくと思う。し、いづれ確信が持てるようになり、それすら思わなくなる時が来る。

どんな場面においても通じることだ。

 

自分自身が体験して初めて納得できる。

自分で実験してみるとよい。

自分が本当に望んでいることはできるようになっている。

天は「大丈夫だよ!うまく行ってるよ!」というところを見せてくれるはずである。

そうやって、天と信頼関係を作っていく。

 

ダメなことじゃなかったと気づく

自分に自信がないと、つい「ダメな私」「できない私」と自分を責めて低く見てしまいがち。

でも、完璧な人はいないのだから、できない自分を責めなくていいんだよ。

ダメなんかじゃないんだよ。

「私は○○ができないからダメ。だからできるようになろう」と思って、努力してできるようになったこともたくさんあったと思う。それも成長の一つ。

でも、「できなくてもいいんだよ」と認めたり、許したりすることも成長の一つだよ。

人は持ちつ持たれつ。

できることはみんな違うのだから、できない時はできる人にやってもらえばいい。

やり方を教えてもらえばいい。できる人が上で、できない人が下、と上下関係を作る必要はない。できない人がいるから、できる人は能力を発揮することができる。人を助けることができる。

確かに子供は親に教えてもらって成長する。けど、親が上、子供が下、ということはない。親だって子供から学ぶことはたくさんある。

 

以前も書いたことがあるが、例えば、仕事ができる人は何でもスピードが速い、仕事できない人は遅い、というイメージがあるが、それは仕事の内容によっては「早い=良い、遅い=ダメ」と一概には言えないのはわかることと思う。

私は子供のころから、何でもやることが遅くて、のろいと言われたことがあった。

「遅い=ダメ」と思い込み、常に時間を計って何でも早くできるように頑張った。ある程度は早くできるようになったこともある。でも、早くできても抜けてたり、ぞんざいだったりすることもあった。「遅い=ダメ」と人に思われたくなくて、人の目が気になって、スピード命になっていたんだ。遅くても、丁寧に間違いなくやる方が信頼はできるよね。ただ、スピードを求められるところに私は合わなかっただけだ。物を作るとか、直すとか、他にもいろいろ、スピードを求められない仕事だったら、活かせたはずだよね。

それは、良い、悪いではなく、ただそうある、というだけのこと。

「ダメだと思っていたことはダメじゃなかったんだ」と気づいて許してあげられるようになることが、本当の自分に近づく、成長の一つ。

今まで、ムリして自分らしくないことを頑張ってた。できるようになるために努力したことは素晴らしいことだけど、できなかったからって自分の価値が下がるわけではないんだよ。自分にはできないけど、できることが他にある。それをやればいいのだから。

 

例えば、コンプレックスがあって、これさえなければ、とか、ここがこうなってれば、とか、思うことがあると思う。

でも、イヤだ、嫌いだ、こんな私ダメだ、と思っているのは自分だけかもしれないよ。

例えば、自分の声が嫌いで、もう少しきれいな声だったらよかったのに、と思うとする。けど、特徴的な声は、その人だけのもの。その声が素敵!と思う人もいるのである。歌手になったり、声優になったりして、活かすことができる。ファンもできる。

ダメじゃなかったって認めることができたら、本当に幸せだよね。

 

私は身長が低いのだけど、「身長低い私、かっこ悪い、恥ずかしい」と思ってた。

既製服は合うものがないし、電車でもつり革に手が届かなかったり、上の棚に荷物乗せられないとか、いろいろ、背が低くて良かったためしがない。

でも、身長って自分の力ではどうしようもないんだよね。体重なら自分で調整できるけど。だから、自分でどうにもできないことは悩んでも仕方ない。

高い所には手が届かないけど、脚立を使えばいいもんね。

 

自分が、ダメだと思っていたことや、物を、ダメじゃなかったんだと気づくことができたら、許せるようになったら、気持ちがラクになるよ。

皆が、皆のできないところをカバーしあう、優しい世界になればいいと思うんだよね。