満ち足りて優しく生きるための覚書

自分を好きになる、自分に生まれてよかったと言える、満足して、自分にも人にも優しくなれる、そんな人生にしたい。

自分の中の「禁止していること」を許可していく

現実に起こる問題は、それを体験した時に自分が感じることによって、自分を知ることができる。その為に起こる。人が行っていることが癇に障る、とか、ザワザワモヤモヤするとか。自分は何を見て、何を感じてザワザワモヤモヤするのか。

 

例えば、自分が「ダメ」と思っていることを目の前で他人がやっていると、腹が立ったり、頭に来たりする。それは本当にダメなことなんだろうか。自分が勝手にそう思っているだけなのではないだろうか。「それがダメなのは常識」と思うだろうか。

もしかしたら、それをやっている人を羨ましいと思うだろうか、そうできたら楽しいのに、楽なのに、と思うだろうか。自分は何を我慢しているのだろうか、それを自分もやってみてもいいんじゃないか?

ダメダメ!!と禁止してきたことを、ちょっと自分に「やってみてもいいよ」って許してあげてみたら?全然ダメじゃなかった!むしろやってみてよかった!って思うかもしれない。

そうやって、自分の中の禁止事項が一つずつなくなっていったら、制限が少なくなっていって、楽になれるよ。

 

私は、「頑張る」と「頑張りすぎ」の区別がつかなかった。

今日できることは、今日できる限りのことをしよう、時間を無駄にしないようにしよう、あれやって、これやって、と予定をいっぱいにして、休むことができなかった。

そして、目の前の、ゆっくり自分の時間を過ごしている、くつろいで楽しんでいる人たちが、ものすごく羨ましくて嫌いだった。働かないで、生活できている人たちが羨ましかった。こっちは、こんなに働いているのに全然生活が楽にならない、って思ってた。

 

やりすぎて、倒れてしまった。動けなくて、仕事を休んだ。

ある意味、何も考えないで眠りたい&仕事休みたい、という願いは、病気という形で叶ったことになるのだが。

そこまで自分を追い詰めて初めて、自分が無理してたんだって気が付いた。

イヤ、同じことを何年も何度も経験している。そのたびに、「頑張るのをやめよう」「ほどほどにしよう」と思うのだけど、また半年くらいかけて、同じような状態に戻ってしまう。

年に2度は倒れて仕事を休んでいるのだ。

本当にそこで学びたいものは何?

極端に、働きすぎでも、働かなさすぎでもよくない。

目の前にいた、くつろいでいる人たちは、私に、「もう少し息を抜いて、肩に力を抜いて、楽に生きていいんだよ」って見せてくれていたのだと思う。

そして、なぜ頑張りすぎてしまうのか、というと、働かなければお金が入ってこない、と思っているから。自分が楽していると、仕事を失うかもしれない。という不安から頑張りすぎてしまっていた。

自分は、大丈夫なんだ、好きなことをして生きていけるんだ、っていうことを信じられてなかった。だから、「頑張りすぎなくても、大丈夫なんだよ」って自分に言ってあげたい。

休んでいいんだよ、楽しんでいいんだよ、時間を無駄にしているようで無駄な時間じゃないんだよ。って、そういう余裕の時間が必要なんだよ。って言ってあげたい。

そして、焦らなくていいんだよ、必要な時間は与えられてる。大丈夫って言ってあげたい。気持ちも、体力も、時間も、余裕のある人生にしたいね。お金は必要な分はちゃんと入ってくるって信じよう。もう、自分に無理はさせない。無理だと思うことはやめてあげる。自分が心地よく過ごせることを最優先にしよう。