人よりも自分を見る
私は以前、人のことがとても気になっていたと、前の記事に書いた。
そう、常に意識は人に向いていたんだよね。
人を裁いて、判断して、常に気を張って、イライラして、くよくよして、本当にイヤなヤツだった。
心の中では、例えば、人に対してこんなことを思っていた。
なんで、あの人はこんなことするんだろう。
なんで、今それをするんだろう。なんで、今そんなことを言うんだろう、なんて空気読めないやつ。
なんだ、あの態度は。
なんて常識はずれな人なんだ。
なんで、人にやってもらっておいて、ありがとうが言えないの?
なんて気が利かない人なの?周りをよく見ろよ。
覚えられないなら、メモ取れよ!
なんだ、その謝り方は。全然誠意がこもってない!
それくらい自分で何とかしろよ。
などなど、もっともっといろいろ。
文句ばかりよく出てくること。
いつも、自分の常識を人に押し付け、自分の正義で人を裁き、思い通りにならない人を見ると、つい一言を言いたくなる。言ってしまう時もある。そして、イライラして、イヤな気分になって、人を見下して、人をコントロールしたくなって、疲れてしまう。
どうしてこんな風になってしまうのか。毎日辛かった。
毎日がとても忙しすぎて、体力的にも気持ち的にも全く余裕がなかった。
でも、一番の原因は、私が人のことを認められなかった=自分のことも認められなかったからだ。自信がなかったからだ。
人よりも、自分は正しくできる人間と思いたかったのかもしれない。
かもしれない、というのは、その時の自分の状態を客観的に見れてなくて、イライラも無意識だったから。いつもそんなに怒っていたとは自分でも気が付いてなかった。
完璧主義者だから、完璧にできてない自分が嫌いだったし、情けなかったし、認めたくなかったのだと思う。だからか、人の好い所を見るよりも、アラを探していたような気がする。
毎日疲れていた。自分でもどうしていいかわからなかった。
心ではそんなひどいことを思っていながら、表向きは笑顔で仕事してた。
いろんなお客様がいて、トラブルもあった。
心無いこと言われて、落ち込むこともたくさんあったし、無理難題を言われたりした。
今思えば、本当に、よくやってたなと思う。
そんな風に人のことばかりチェックして、裁いてイライラしてた自分が、今はとても穏やかに過ごせている。お客様とのトラブルもほとんどなくなったし、ちょっと「ん?」と思うことやイラっとすることがあっても、激高することもなく、気持ちを流せるようになった。
どうしたかというと。
まず、忙しすぎたので、少しずつ仕事量を減らして、体力と気力に余裕を持つようにした。無理してやっていた仕事を、自分の無理なくできる分量にペースを落とした。
そして、人がやることにイライラしてたけど、なぜ、それが嫌なのか?なぜそれを許せないのか?を探っていった。
完璧主義者だったから、できない人が嫌いだったし、できないなら努力しろと思っていたけど、その、完璧主義をやめるように努力した。
できなくてもいいんだって、人のことも自分のことも許すようになった。
許せるようになったら、楽になった。できないことがあって当たり前だってわかってきた。自分と人とは違うのだから、できることも違うし、できないことも違うから、補い合えばいいんだと。そんなこと、当たり前でわかっていたつもりだったのに、全然わかってなかった。
気が利かない人を責めてたけど、自分も全然気が利かない人だった、とわかった。
言いたいことがうまく言えなかったり、気が付かないこともたくさんあった。それに気が付いたんだ。
自分は、自分が思ってたほどできる人間ではなかった。
それを認めたら、がっかりして悲しくて、情けなかったけど、そうなんだよな。
頭のいいふりして、できるふりしてただけで、全然できてなかった。
たぶん周りにはめっちゃバレてるのに、バレてないと思ってたんだよね。滑稽だね。
ムリして虚勢張らなくてもいいって、肩の力が抜けた。
できない自分を認めて許した。
人の姿を見て、自分の姿を見つめ直し、あの姿は私なんだな、と気づけるようになった。自分では自分のことを気が付けないけど、だからこそ、周りにいる人が、見せてくれているんだな、と理解できるようになった。
自分がイライラしている時は、周りの状態もギスギスしてたり、不安定だったり、トラブルが多かったりする。そんな人が多くなる。同じ状態の人が寄ってくる。類は友を呼ぶからね。
でも、自分が穏やかになってきたら、周りの人たちも穏やかで、心地よく過ごせるようになる。
だから、周りの人たちをどうにかしようと躍起になるのではなく(人はコントロールできない)、自分の状態を整える方が先なのだ。
人よりも自分を見よう。整えよう。
正直、理解するまでに時間はかかったけど、今はとても楽になったよ。